天照大神の姫巫女〜9条と靖国と世界平和〜

天照大神である姫様とその媒体である素人巫女のブログ

ローマ教皇と靖国神社

ローマ教皇靖国は繋がりが深い事をご存知だろうか?

 

靖国とは日本の国内外の事変・戦争等、国事に殉じた軍人、軍属等の戦没者を「英霊」として祀る神社で、外国からは「戦争神社」と呼ばれる事もあったらしい。当時の軍歌の中にも出て来る。

 

「同期の桜」

 

帖佐裕編詞・大村能章作詞

 

貴様と俺とは 同期の桜

同じ兵学校の 庭に咲く

咲いた花なら 散るのは覚悟

みごと散りましょ 国のため

 

貴様と俺とは 同期の桜

同じ兵学校の 庭に咲く

血肉分けたる 仲ではないが

なぜか気が合うて 別れられぬ

 

貴様と俺とは 同期の桜

同じ航空隊の 庭に咲く

仰いだ夕焼け 南の空に

未だ還らぬ 一番機

 

貴様と俺とは 同期の桜

同じ航空隊の 庭に咲く

あれほど誓った その日も待たず

なぜに死んだか 散ったのか

 

貴様と俺とは 同期の桜

離れ離れに 散ろうとも

花の都の 靖国神社

春の梢に 咲いて会おう

 

 

靖国とは、戦争でむごく亡くなった幾万の御霊が祀られる場所である。

 

戊辰戦争明治維新から始まり大東亜戦争(太平洋戦争)までで246万6584柱として祀られている。その内213万3915柱は太平洋戦争で亡くなった者である。

 

あのような酷い戦争を引き起こし、人類史上最悪の惨状として日本には2発の核が堕とされた。そして、天照大神を皇祖神とする昭和天皇終戦詔勅(玉音放送)を告げられ日本は敗戦した。戦争の惨たらしさを知れば当時の混乱は想像に難くない。

 

日本はGHQの占領下となり1945年12月15日に神道指令を発布される。神道指令とは、GHQが日本政府に対して発した覚書「国家神道神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」(SCAPIN-448)の通称である。

覚書は信教の自由の確立と軍国主義の排除、国家神道を廃止、神祇院を解体し政教分離を果たすために出されたものである。

 

ウィキペディアにはこう記載されている。

 

GHQは占領期間中、靖国神社の存続の容認を苦慮している。靖国神社を崇敬社が管理するという文部省案もあった。GHQ宗教課の特別調査班が、信教の自由の観点から、慎重に時間をかけて調査している間に、国際情勢が変化し、アメリカ政府は、ソ連を中心とした共産主義国家に対抗することに外交政策の軸足を移した。靖国神社の存続容認に、いわゆる逆コース、もしくは、「日本の非軍事化・民主化の促進に重点を置いた政策」から「日本を共産主義国家に対抗するアメリカの同盟国に変える政策」という、アメリカ政府の日本に対する占領政策の変更が作用したと見られている。』

 

戦争直後、靖国GHQに存続を危ぶまれていた。焼却してドッグレース場にするような案もあったらしい。(これは本当の話しでは無いそうだ。)しかしそんな通説が残る程だから当時GHQがどれだけ日本古来の神道とそれに基づく国体を問題視していたかが解る。しかしでは何故、靖国は今も存在するのか。そこでキリスト教が関わって来るという。

 

マッカーサーに日本の神社の本質と存続について相談されたカトリック教会のビッテル神父とメリノール宣教会のバーン神父は「いかなる国家もその国家のために死んだ戦士に対して敬意を払う権利と義務があると言える。それは、戦勝国か敗戦国かを問わず平等の真理でなければならない。」「靖国神社を焼却する事は、連合国軍の占領政策と相容れない犯罪行為である。」

と述べ、

靖国神社国家神道の中枢で誤った国家主義の根源であるというなら排すべきは国家神道という制度であり、靖国神社ではない。我々は、信仰の自由が完全に認められ神道・仏教・キリスト教ユダヤ教などいかなる宗教を信仰するものであろうと、国家のために死んだものはすべて靖国神社にその霊をまつられるようにすることを進言するものである。」という同様の趣旨の発言をし、この進言により靖国神社は焼き払いを免れたという。さらに1951年(昭和26年)ローマ教皇庁はあらためて1936年(昭和11年)の「祖国に対する信者のつとめ※」(※神社への参拝は「愛国心と忠誠心の表現である」とし、靖国神社参拝も認める。教皇庁が何らかの手違いや間違いでそう言ってしまったのではない。)と1951年11月27日付の「第二聖省訓令」で再確認している。

 

一方、宗教社会学者のマーク・R・マリンズは「外国人のカトリック司祭が占領の初期数ヶ月に介入し、靖国神社を不可避の破壊から救った、という通説」を多くの資料を基に検討し次のような結論に至っている。「ビッテルとバーンが1945年の後半に靖国神社のために懇願を行ったということは否定しえない。だが参照しうる記録によれば、この介入が取るに足らないものだったということも同程度に明らかである。彼らの意図がいかなるものであったにせよ、現在靖国神社が存在していることに関して、彼らは「称賛」と「非難」のどちらも受けるに値しない。この時代の様々な記録からは、はるかに複雑な歴史が垣間見える。占領期の大半において靖国神社の状態と地位は危ういままであり、その運命はまさに占領期の終わりまで討議されていた。とした。(ウィキペディアより)

 

靖国神社は今の日本人にとって、何であるのか?諸外国には軍国日本を想起させ嫌悪感を感じさせるもののようだが、私は再びそれを崇拝せよ、とか神聖な場所だ、とか言って偏った愛国心を煽るつもりは毛頭無い。だからといって今時なドッグランも無い。結局靖国は存続を認められた。

 

ビッテルとバーンは、靖国神社は宗教的崇拝の場ではなく愛国心を表明する市民的儀礼の場であるという(ローマ教皇庁の1936年(昭和11年)の訓令に沿う)立場から請願を行ったが、最終的に靖国神社が存続を認められたのは、その宗教的本質がGHQ民間情報教育局(CIE)の宗教課に承認されたためであった。信仰の自由の原則の確立を日本政府に要求したGHQは、宗教的な場である靖国神社を廃止してその原則に自ら違反することを避け、1951年(昭和26年)9月12日の指令「宗教団体使用中の国有地処分に関する件」で他の宗教団体と同様の条件のもとで靖国神社の存続を認めた。

 

1975年(昭和50年)には真言宗醍醐派品川寺僧侶仲田順和(のち醍醐寺第百三世座主)が教皇パウロ6世に東京裁判で戦犯となったものへのミサを行うことを依頼すると教皇はミサを約束する。パウロ6世は1978年に死亡するが、1980年(昭和55年)5月21日、教皇ヨハネ・パウロ2世パウロ6世の遺志を引き継ぎ、A級戦犯BC級戦犯として処刑された人々へのミサをサン・ピエトロ大聖堂で行った。1618柱の位牌が納められた五重塔ヨハネ・パウロ2世に奉呈された。

 

どのような宗教・場所であれ、私達は互いに理解を深め、憎しみ合わず、尊重し、平和を築かなくてはならない。その後、平成になって今の時代にそぐわない「祖国に対する信者のつとめ」は最早必要とされないとして日本カトリック司教団は以下のように位置づけている。

 

2007年(平成19年)2月21日、日本カトリック司教団は、「信教の自由と政教分離に関する司教団メッセージ」を発表し、「教会は当時の布教聖省の指針に基づいて、『学生が神社で行うように政府から命じられた儀式は宗教的なものではない』とし、天皇に対する忠誠心と愛国心を表す『社会的儀礼』であるとして、信徒の神社参拝を許容しました。※※こうして、あの戦争に協力する方向へと向かってしまったのです。

 

(※※この指針は、カトリック信者の学生たちが靖国神社への参拝を拒否した(上智大生靖国神社参拝拒否事件)ことから、各学校に配属されていた配属将校がこれに抗議して引き上げるという当時としては大学および学生たちの将来において重大な影響を与えうる大事件に対してどう対応するか、ということについて教皇庁の指導を受けたものであって、今日国家神道は存在せず神社参拝は国民の義務ではないことなど指針の前提が大きく変わってしまった以上、そのまま適用することはできないこと、が述べられている。)

 

しかし戦後に日本国憲法が制定されたこと、国家神道が解体され靖国神社が一宗教法人になったこと、教会も第二バチカン公会議※※※を経たことなどから、当時の布教聖省の指針をそのままでは現在に当てはめることはできません。」として、戦前の「祖国に対する信者のつとめ」という訓令のあり方を否定した。

 

※※※第2バチカン公会議(1962年-1965年)は、ローマ教皇ヨハネ23世のもとで開かれ、後を継いだパウロ6世によって遂行されたカトリック教会の公会議である。

この会議では、公会議史上初めて世界五大陸から投票権を持つ参加者 (公会議教父) が集まり、まさに普遍公会議というにふさわしいものとなった。教会の現代化(アジョルナメント)をテーマに多くの議論がなされ、以後の教会の刷新の原動力となるなど、第2バチカン公会議は20世紀のカトリック教会において最も重要な出来事であり、現代に至るまで大きな影響力をもっている。

 

代は変われどローマ教皇はこうして今、日本を訪れ核の無い平和を痛切に祈っておられる。イタリアのローマの首座司教、イエス・キリストの代理者、 使徒ペトロの後継者、カトリック教会の最高司教、バチカン市国元首ともなると色々な事があるだろうと私は思うのだが、その平和へのひたむきな姿勢や人々への慈愛や献身は真実のお姿だと感じられる。

 

靖国について書くならば、もし戦犯を祀ることによって諸外国の不興を買い、混乱を招くのならばそれを変えていかなければならないのでは無いか?

 

 

靖国神社は単立神社として神社本庁との包括関係に属していない。これは、「靖国神社は日本国の護持の神社であり、いつかは国に返すべきなので、特定の宗教法人の包括下に入るべきではない」という靖国神社神社本庁双方の判断によるものである。このような経緯のため、靖国神社神社本庁とは包括・被包括の関係にないながらも密接な協調関係を保っている。例えば神社本庁靖国神社崇敬奉賛会法人会員となっている。神社本庁に属さない神社であるため、宮司以下の神職神社本庁神職の資格を持った人物である必要はない。例えば第6代宮司松平永芳はもともと神職ではなかった。この場合、祭式などの研修をまず受けることになる。”

 

ここにも、靖国を普通の神社としないという「特別感」が感じられる。そうも武士の、軍部の力が強かったのだろうか?私は最初、このブログを始めた時は「天照大神靖国に奉る為のブログ」と題したように記憶している。

 

私は大それているだろうか?

 

『戦争で死ぬ為の神社』

 

そんなのあってはならない。

そっちの方が今の時代にはそぐわない。

 

『戦争はあってはならない事を学んだ証』

としての負の世界遺産か何かにしたら良いのでは無いか?

 

天照大神はこう告げられた。

 

天照大神である

 

妾は何も分かっておらぬ

 

なにゆえ妾を祀らぬのか

 

申せ

 

妾は愛している

 

愛しているのだよ”

 

 

ローマ教皇フランシスコ来日に寄せて

f:id:AMATERASUnoHIMEMIKO:20191126081723j:plain

爆心地公園に掲げられた「焼き場に立つ少年」のパネル(AFP=時事)

(画像はNEWSポストセブンから拝借しました。)