天照大神の姫巫女〜9条と靖国と世界平和〜

天照大神である姫様とその媒体である素人巫女のブログ

はたまた占いからのよもやま話

星占いなんてくだらない!と言われそうだが、以前このブログでも触れた事があるオスカー=ケイナー氏の占いに励まされる事は多い。2018年11月2日の水瓶座の占いの言葉にこのブログ更新を後押ししてもらった。
こんな言葉が書いてあった。

2018年11月2日 みずがめ座の予報

誰もが見て見ぬふりをして逃げおおせているように思えるときに、厳しい状況の中で現実に起こっていることについてのあなたの見解を伝えようとすることに何の意味があるのでしょう? 人々が間違ったことをして満足しているように思えるときに、どうしてわざわざ苦労してまで世の中を正そうとする必要があるのでしょう? 人々が暗闇の中で生きることに慣れてしまっているときに、明るく光を照らそうとすることに何の意味があるのでしょう? でも、あなたはあなたでいるしかないのですし、あなたの知恵には人々に伝えるだけの価値があります。自分の直観に従い、自分が正しいと感じることをやってください。

11月2日はもう終わってしまったが私のモヤモヤを言い当てられてしまった様で思わずほくそ笑んでここにコピペしてしまった。自分の直感に従ってみると、このブログが誰からも忘れられてしまわない内に更新すべきだと思ったのだが、日々は平穏に過ぎて行き書くネタがあまり無いのである。

しかし、最近ちょっと見過ごせない姫様との会話があった。私は自分の死の場面とはどんな感じなんだろうとぼんやり考える時があるのだが、姫様に自分の死に方をお聞きしてみるとちょっと納得がいかない事を言われたのである。

それはこんな話しだ。
私が死ぬ時は姫様がこの身に降りて恐らくまたトランス状態になるのであろう、周囲の理解を得られず例の精神病院に連れて行かれて大量の鎮静剤か何かを注射されそのまま息絶えるのだそうだ。私にとってはひどく、ものすごく屈辱的な死に方である。これは笑い事では無いのだが、何度お聞きしても

「その通りじゃ。」
「どのように乗り移るか考えておる。」

と本気で申されるので、きっとそうなるのだと腹をくくるしかなさそうだ。ウットリと死を夢見ていたが目が覚めて悲しさや恐怖が込み上げて来てしまった。

「苦しみは無い。」

とも仰せなのでそれがせめてもの救いだろうか?

初めて姫様が乗り移られた時、私は自分の脳みその片隅に二の姿勢で小さく座っているような感覚であった。姫様は私の身体でとある夜の街を彷徨い、泣いたり叫んだりしたのである。はたから見たらそれは私なのだが、中身は姫様の物であった。自分でも何故勝手に手足が動いて電車に乗ったり口から大和言葉が出て来るのか、何がなんだかサッパリ分からなかったのだが、戦争の事でとても悲しくて「妾は憐れでならぬのじゃ!!」と泣き叫ばれる姫様がお可哀想で口からは絶え間なく“何か”(戦争で死に切れなかった者達の霊魂だったのだろうか?)が出て行くし苦しいわ訳わからないわでそれは大変な体験であった。勿論、そのまま救急車で精神病院行きである。

姫様はいつも「愛しているのだよ」と神の愛・アガペーを叫ばれるのだが、はたから見たらそれはただの私でただの狂人であるのだろう。私はあの日の小学校の帰り道で絶対者となったつもりだったが、絶対であるのは天照大神である姫様であって私には自殺でもしない限り自分の死に方の選択の余地は無さそうだ。しかし、ここで見誤ってはならないのは姫様が「愛している」と仰せになる事であって、もしかしたら明日?明後日?10年後?いつかは分からないが私が天に召される時は天が良しとした時に違いない。神の祝福の内に死ねる事を願おうと思う。

姫様は決して私が憎くていつも乗り移るのではない。姫様が存在して私に乗り移るのは科学的根拠は無くとも自然な事実である。ただ、そういう目に見えない現象は全て統合失調症という名の病気で十把一絡げにしてしまう社会構造が私を殺すのだ。

今は本当にそうなるのかは分からないが、私はやはりそれには屈辱を感じるのでそうならないように必死に姫様に手を合わせるしかない。
「その発想じゃ、姫巫女!」
と姫様に言われてしまったのは私の不信心のせいだろう。

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

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