天照大神の姫巫女〜9条と靖国と世界平和〜

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国家権力を考える【権力は誰の為にあるのか】沖縄ヘリポートの記事を読む

今読んだ記事です。
自分の無力さに胸が痛みました。
1人でも多く、日本にはこういう問題がある事を、普通の暮らしをしている普通の人に、他人事ではなく深く考えて欲しいと思ったのでブログに載せました。(良かったのかな?)何故なら、普通の人には一票の権利があるからです。
正当に選ばれた国家権力は国民の平穏の為であって欲しい。ヘリポート建設の理解を求める議論は尽くした上での「排除!」であったのか。そもそも、ヘリポートは何の為に必要だったのだろう。アメリカは日本国民を護る為だと言い張るのだろうか。やはり、威圧的なのだろうか?
以下、記事タイトルと本文をコピぺしました。

「このままでは死者がでる!」 沖縄・高江で見た国家権力によるむき出しの暴力〈dot.〉

 ヘリパッド(ヘリコプター着陸帯)建設問題に揺れる東村高江は、沖縄県の北部、やんばるとよばれる亜熱帯森林のなかにある約150人の住民が暮らす小さな集落だ。高江は米軍北部訓練場の真横に位置しており、現在でも、昼夜問わず毎日のようにヘリが飛んでいる。

 そんな小さな集落に、さらに6つのヘリパッドを建設するということが、どういうことなのか分かるだろうか。「高江に人が住めなくなる!」と考えた住民たちは、自分たちの生活を守るために、抗議活動を始めた。

 なぜ国は、沖縄にばかり苦しみを背負わせるのか? 『沖縄の新聞は本当に「偏向」しているのか』(朝日新聞出版)の筆者である、ジャーナリストの安田浩一が現地を取材。そこで目にした、国家権力によるむき出しの暴力とは。そして、メディアに求められる「役割」、問われる「立ち位置」とは。

*  *  *
 1995年、沖縄県内で米兵による少女暴行事件が起きたことで、日米両政府は米軍基地の整理縮小、一部返還を行うことで合意した。しかし、両政府が合意したのは無条件の「返還」ではなく、代替地への移設という条件を伴うものだった。

 たとえば普天間飛行場の返還を理由として、辺野古新基地建設が進められようとしているのと同じように、本島北部の「米軍北部訓練場」も高江に6カ所のヘリパッドを新たに建設することが交換条件となっていた。

 高江でも地域の意向を無視するかのように工事は進められたが、一部住民によって建設反対運動が進められるなか、工事は一時中断させられた。ところが、参院選が終わった直後、国は工事再開の動きをみせたのである。

 そして、国はついに高江のヘリパッド建設工事を強行した。

 7月22日早朝。「排除!」のかけ声とともに、全国各地から派遣された機動隊員がいっせいに、抵抗する市民に襲い掛かった。薄明かりのなか、怒声と悲鳴が響き渡る。現地で取材していた私が目にしたのは、国家権力によるむき出しの暴力だった。

「なぜ、沖縄ばかりがこんな目にあうの」

 泣きながら抗議する女性を、機動隊員は柔道の技をかけるように押し倒した。地面に組み伏せられた者もいる。粗大ごみを扱うように、座り込んでいるところを4人がかりで放り出された者もいた。

「もういい。もう限界だ。このままでは死者が出る。もうやめてくれ!」

 抗議行動を率いてきた沖縄平和運動センターの山城博治議長が叫んだ。機動隊員によってびりびりに引き裂かれたシャツの袖から陽に焼けた腕を突き出し、「やめろ、やめてくれ」と繰り返す。

 約6時間をかけて一帯を“制圧”した機動隊は、昼すぎに大型バスに運ばれて到着した防衛局職員や警備会社社員の力も借りて、工事資材搬入路の前に設置された市民テントを解体した。10年近くにわたり、ヘリパッド工事に反対する人々の拠点だった。テントを支える鉄骨が崩れ落ちていく。そのとき、それまで晴れていた空に暗雲が広がり、たちまち土砂降りの雨となった。まるで“やんばるの森”が号泣しているようにも感じた。

 同じような風景を幾度か辺野古(名護市)でも目にしている。新基地建設の導入路にあたる米軍キャンプ・シュワブのゲート前。新基地建設に抗議する人たちを、機動隊は繰り返し排除してきた。昨年秋からはデモ鎮圧部隊の“精鋭”として知られる警視庁第四機動隊も現地に派遣されている。辺野古の現場で前出の山城氏にインタビューした際、彼はこう答えた。

「非暴力を貫く。警察の暴力に暴力で対抗しても無駄ですよ。でも、それは何もしないことを意味するわけではない。徹底して抵抗する。ほかに訴える手段を我々は持たないから」

 そしてさらに、こう付け加えたのであった。

「機動隊には機動隊の仕事があることも理解している。だから、誇りを持って仕事してくれと頼んでいる。せめて、我々の願いを、しっかりと見てほしい」

 その「願い」が、機動隊の一部に届いていることを、私も信じたい。辺野古でも高江でも、苦渋に満ち満ちた、いまにも泣き出しそうな表情で「仕事」をする機動隊員がいることを、現場に足を運んだ者であれば知っている。

 問題は、ひりひりするような熱射も、人の息遣いも感じることなく、一方的に指図する者たちだ。

 高江で工事が強行されたその日、国は辺野古の新基地建設をめぐって、沖縄県が是正指示に従わないのは違法だとして、翁長雄志知事を相手に違法確認訴訟を福岡高裁に起こした。裁判所や第三者機関が話し合いによる解決を求め、県も協議継続を求めていたにもかかわらず、だ。

 政府はやりたい放題じゃないか。力で押さえつければ、沖縄は何とかなるとでも思っているのであろう。沖縄は、そうしていつも、組み伏せられてきたのだ。この圧倒的に不平等な本土との力関係の中で「弾よけ」の役割を強いられてきた沖縄は、まだ足りないとばかりに、理不尽を押し付けられている。差別と偏見の弾を撃ち込まれている。

 だからこそ、この場所で取材し、記事を書く者たちは、何を報ずべきかを知っている。どこに寄り添うべきかを知っている。

 記者は国家の伝令役じゃない。発言の回路を持たぬ者たちの声に耳を傾け、不公正を少しでも正そうとすることが、当たり前の記者の仕事なのだ。

 それが果たして「偏向」なのか──。

 メディアの萎縮が叫ばれる今こそ、「偏向」とは何かを再考すべきではないだろうか。

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160729-00000329-sasahi-soci.view-000