天照大神の姫巫女〜9条と靖国と世界平和〜

天照大神である姫様とその媒体である素人巫女のブログ

天照大神・姫様の正体2

今日も鳥取で大きな地震がありました。
被害が大きくならない事を祈り無事を願います。

大阪府警の機動隊員が沖縄の人々を「土人」、「シナ人」と言ったとか言わないとか。またそれを大阪府知事が褒め称えたとか何とか。言葉の意味も知らない年齢だろうに、悪い大人の真似はやめなさい。

天照大神西園寺家縁(ゆかり)の平安末期のお姫様。妾(わらわ)がトランス状態に陥るとこの身に憑依する女性。しかしそれは現代社会では統合失調症に分類され、姫様はいつも抵抗虚しく大量の鎮静剤を注射され精神病院の隔離病棟へと入れられてしまう。統合失調症の陽性症状とはスピリチュアルな側面から見たら巫女的なシャーマニズムの事なのだ、と理解したのはつい最近の事である。

このように自分の思考を冷静にかえりみて思い出すのは、靖国に駆け付けた時の姫様の慈悲の涙である。
「あってはならぬ、あのようなむごい事があろうか、妾は哀れでならぬ…‼」
「二度とあってはならぬ、妾は哀れでならぬのじゃ‼」
あのようなむごい事があろうか…
そうくり返し嗚咽した時の悲しみを、胸の苦しみを思い出す。

彼の地、靖国

なにゆえ別の者を祀っているのか申せ、
妾は愛しているのだよ?

私の声とは違う、姫様の御声は誠、鈴の音のようじゃ。

平安末期、やんごとないお姫様で西園寺家縁のお血筋、平清盛と接点があり名をあきこ、又はしょうし、というらしい。
iPhoneで調べたらお二人の「あきこ」様「しょうし」様が浮かび上がった。

暲子内親王(しょうし/あきこないしんのう、保延3年4月8日(1137年4月29日) - 建暦元年6月26日(1211年8月6日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての皇族。初めて后位を経ずに女院となり、八条院(はちじょういん)と号した。

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鳥羽天皇の皇女で、母は美福門院(皇后・藤原得子)。近衛天皇は同母弟、崇徳・後白河両天皇は異母兄にあたる。ほかに母を同じくする姉妹に、早世した叡子内親王二条天皇中宮となった?子内親王(高松院)がいる。

終生、未婚であったが、甥の二条天皇の准母となったほか、以仁王とその子女、九条良輔(兼実の子)、昇子内親王(春華門院、後鳥羽上皇の皇女)らを養育した。以仁王八条院の猶子であり、王が八条院女房・三位局との間に儲けた子女のうち、男子は東寺長者・僧正となった安井宮道尊であり、女子は三条姫宮と呼ばれた。九条良輔は2歳、昇子内親王は生後3ヶ月ほどで、いずれも幼くして八条院の養子女となり、その著袴・元服などは女院御所で行われた。

保延3年(1137年)に誕生。保延4年(1138年)4月、内親王宣下。両親の鍾愛を受けて育ち、皇后・泰子の養女となって高陽院で育った姉・叡子内親王と違って、暲子内親王は父・鳥羽法皇が「朝夕の御なぐさめ」として手元に置いて育てた。『今鏡』には、同母弟・体仁親王近衛天皇)が立太子した時、3歳だった暲子内親王が「若宮は春宮になりたり、我は春宮の姉になりたり」と言って父・鳥羽法皇を興じさせた話がある。

久安2年(1146年)4月、准三后となる。久寿2年(1155年)に近衛天皇崩御した際、父・鳥羽法皇は暲子内親王を次の天皇にする事を真剣に考えたともいわれている(『愚管抄』)。

鳥羽法皇崩御後の保元2年(1157年)6月に落飾する。法名は金剛観。この出家は既に仏門に入っていた母・美福門院の勧めによるものという。その後、父母の菩提のための仏事や社寺参詣に明け暮れる日々を送ったが、父母の資産の大部分を継承した暲子内親王は同時代人から「鳥羽院の正統を継ぐ嫡流の皇女」として認識されていた。彼女は保延6年(1140年)、わずか4歳の時に父・鳥羽法皇から安楽寿院領などを譲与され、その後に生母美福門院から相続した所領、および新たに寄進された所領をあわせて、全国に二百数十箇所に及ぶ荘園があった。これらは女院管領下にあって八条院領と呼ばれ、中世皇室領の中枢をなす一大荘園群をなした。

皇太子・守仁親王(後の二条天皇)の准母となって、その養育を任され、その異母弟の以仁王の養母となる。守仁親王が即位すると、応保元年(1161年)12月16日、女院号宣下を受けて八条院と称する。これは養母であった美福門院の死や実父である後白河上皇との対立によって打撃を受けた二条天皇が、准母である彼女への権威づけによって、結果的に自分自身の権威づけをも図ろうとしたとする説もある。また、美福門院の実娘である高松院との婚姻関係が事実上終焉したために、二条天皇鳥羽法皇・美福門院の後継者としての権威づけを彼女の存在を通じて図ろうとしたもので、彼女自身には特別な政治力は無かったとする説もある。その後も異母兄である後白河法皇院政を影から支えており、平清盛でさえも彼女の動向を無視することは出来なかった。二条天皇が彼女を准母として自らの正統性を示し、後白河院も幾度となく八条院御所へ御幸していることからも、彼女の存在が重く見られていた事実がわかる。

治承4年(1180年)、猶子である以仁王が反平氏の兵を挙げた(以仁王の挙兵)。この際、八条院が密かに支援しているのではと言われ、実際、八条院以仁王の子女(生母は八条院女房)を自身の御所で匿っていたが、清盛も社会的な反響を恐れて結局は以仁王の男子を出家させることを条件に女院の行為を不問にせざるを得なかった。だが、全国各地にあった八条院領には「以仁王の令旨」が回されて現地の武士団による反平氏蜂起が促されていった。以仁王が発した平家追討の令旨を各地に伝達したとされる源行家八条院の蔵人であり、また別の八条院荘官源頼朝と連絡を取っていた。また、池大納言平頼盛(清盛の異母弟だが、仲が良くなく、独立行動が目立つ)も八条院乳母子を妻として女院の官人となっていた。八条院自身の立場はさておき、彼女の周辺には、反平家の人々が集っていた。なお、安徳天皇の西走後にも彼女を中継ぎの女帝として擁立する動きがあったと言われている。

以仁王の王女・三条姫宮を養女とし、大病に罹った建久7年(1196年)正月、所領の大部分を彼女に譲った。ほかの小部分をこれも猶子とした九条良輔に譲与した。三条姫宮は八条院がもっとも長く養育していた子供で、思い入れも深かっただろうが、実際の譲状には後鳥羽上皇の気持ちを考えてか、まず三条姫宮に管領させ、姫宮一期の後、上皇の皇女である昇子内親王へ譲るとあった。元久元年(1204年)、姫宮の死去によって再び荘園を管領した。その後、もう一人の養女である昇子内親王八条院領の大部分を伝えた。建暦元年(1211年)、75歳で薨去

八条院領は後に順徳院・後高倉院・安嘉門院の手を経て、やがて大覚寺統の重要な経済基盤となった。

鷹揚な人柄の姫君であったらしい。健寿御前(はじめ建春門院に仕え、のち八条院にも仕えた)の『たまきはる』によれば、八条院は生活面において非常に無頓着・無造作で、およそ身辺の雑事について指示することが無く、女房たちを思いのままに自由にさせたという。健寿御前は、塵が積もった御所の中で、女房がちぐはぐな衣装を着ても気に留めなかった八条院の様子を見て、華美好きで整然とした建春門院御所との違いに感嘆した。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%9A%B2%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B


私はこの八条院の暲子様をウィキペディアで読んで、「きっとこの方だろう」と思ったのだが、西園寺家との縁を調べるうちにもう一人のしょうし様がこの世に存在していた事実を知ったのだ。


藤原 璋子(ふじわら の しょうし / たまこ、康和3年(1101年) – 久安元年8月22日(1145年9月10日))は、平安後期の国母。鳥羽天皇中宮で、崇徳・後白河両天皇の母。女院号は待賢門院(たいけんもんいん)。

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閑院流藤原氏の出身。父は正二位行権大納言藤原公実、母は左中弁・藤原隆方の女で堀河・鳥羽両代の乳母・光子。太政大臣・実行(三条家祖)は異母兄、権中納言・通季(西園寺家祖)、左大臣・実能(徳大寺家祖)、大炊御門経実室・公子(二条天皇の外祖母)らは同母兄姉。

幼少時より、時の治天の君白河法皇とその寵姫・祇園女御に養われた。7歳の時に実父・公実を失う。

永久3年(1115年)頃、摂関家の嫡男・藤原忠通との縁談が持ち上がったが、璋子の素行に噂があったため忠通の父・忠実は固辞し、白河院の不興を買った。

永久5年(1117年)12月13日、白河院を代父として、父方の従弟・鳥羽天皇に入内、4日後には女御の宣旨を蒙った。1ヶ月ばかり経った元永元年(1118年)正月26日、立后され中宮を号す。元永2年(1119年)5月28日、第一皇子・顕仁親王(後の崇徳天皇)を出産。その後、保安3年(1122年)6月、禧子内親王を産む。

保安4年(1123年)正月28日、白河院は5歳になった顕仁に践祚させ、璋子も翌天治元年(1124年)11月24日に院号を宣下されて待賢門院と称した。同天治元年5月に通仁親王、翌2年(1125年)5月に君仁親王を続けて産むが、この両皇子は乳児の頃より障害を持っていた。その後も、翌大治元年(1126年)7月統子内親王(上西門院)を、大治2年(1127年)9月11日、雅仁親王(後の後白河天皇)を年子で出産し、2年後には末子・本仁親王(後の覚性法親王)も生まれた。

このように璋子は鳥羽帝との間に5男2女を儲け、熊野詣にも同行しているが、それは白河院の在世中であればこそだったという。大治4年(1129年)7月7日、「幼主三代の政を執」った白河院が77歳で崩御した。このとき璋子は閏7月に生まれる本仁親王を懐妊中であった。養父である白河院の死を機にして、璋子の人生は暗転する。鳥羽上皇治天の君を継承し廷臣を統率、後ろ盾を持たぬ崇徳帝は孤立した。鳥羽院白河院によって関白を罷免され逼塞していた藤原忠実を起用し、その娘の泰子(高陽院)を皇后に立てたばかりでなく、璋子に代わって側妃の藤原得子(美福門院)を寵愛したのである。保延5年(1139年)8月17日、鳥羽院は得子が産んだ生後三ヶ月の第八皇子・体仁親王立太子させ、2年後の永治元年(1141年)12月7日、崇徳帝に譲位を迫り、体仁を即位させた(近衛天皇)。

ところが、近衛天皇即位・得子の皇后冊立と相前後して得子を標的にしたと考えられる呪詛事件(日吉社呪詛事件・広田社巫呪詛事件)が相次いで発覚し、璋子が裏で糸を引いているという風説が流されるようになる。また、このころから崇徳院白河院の胤だとする風説が囁かれるようになる(これは『古事談』のみに見られる記述であり、真偽は不明)。こうして権勢を失った璋子は、翌康治元年(1142年)、自ら建立した法金剛院において落飾。3年後、久安元年(1145年)8月22日、長兄・実行の三条高倉第にて崩御した。鳥羽院は三条高倉第に駆けつけて璋子を看取り、臨終の際は磬(けい、読経の時に打ち鳴らす仏具)を打ちながら大声で泣き叫んだという(『台記』同日条)。

没後10年目の久寿2年(1155年)7月23日、近衛天皇が17歳で崩御し、図らずも璋子の生んだ四宮・雅仁親王天皇に指名された(後白河天皇)。朝廷は後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し保元の乱が勃発した。

京都市右京区花園扇野町に現存する法金剛院は、平安前期、右大臣・清原夏野の山荘だったものを死後に双丘寺とし、天安2年(858年)、文徳天皇の勅願によって天安寺が建立されたが、その後は荒廃し、大治5年(1130年)になって璋子が復興したものである。璋子はここで晩年を過ごし、今も、法金剛院の北、五位山中腹の花園西陵に眠る。絶代の美貌を謳われ、信仰心も深かった璋子を慕い、法金剛院を訪れる人々の中には、かの歌僧・西行もいたという。璋子に仕えて出家の供をした待賢門院堀河は、『百人一首』に歌を採られるなど、歌人として名高い。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%92%8B%E5%AD%90



鳥羽天皇の皇女(皇后との間の内親王)と中宮(側室である配偶者)、どちらの人物なのか私のシャーマニズム=霊感で姫様と会話してみるのだが上手くいかない。姫様のお話しになるお言葉があまりにも古風で高貴なので昭和生まれの一般庶民でしかない私にはさっぱり理解出来ないのである。しかも今、再びトランス状態に陥るのを防ぐ為に月一回の注射薬を打っていて、これが効いているようなのだ。姫様のお言葉をくみ取る能力が衰えていて、何を話されているのかよく分からない状態なのである。

しかし、それでも地球は太陽の周りを回っているし季節も秋である。私はお茶でも呑みながら次に何が起こるのか、ボーッと待つほかはない。

うき世をば出づる日ごとにいとへどもいつかは月の入るかたを見む

(八条院高倉 はちじょうのいんのたかくら 生没年未詳)

【通釈】つらい現世を、朝日が昇るたびに厭い、遁れ出たいと思うけれど、いつになったら、月の沈むほう、西方浄土を拝むことができるのだろうか。

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