天照大神の姫巫女〜9条と靖国と世界平和〜

天照大神である姫様とその媒体である素人巫女のブログ

3.11に永遠の「愛してる」を考える

3.11
愛する者を亡くした人に
どんな言葉をかけたら良いのだろう

生と死に分かれ、
あまりに突然だった
あの日、

物ならまた作れば良いかも知れないけれど、あの人は急に居なくなってしまった

それが一番辛かろう

人に自分の運命が選べるものだろうか?

親や子を失う、
兄弟姉妹、
自分を愛してくれた
恋人や友達さえも

一番、大切な事なのだけど
戦後めざましく豊かになり
尊大にならざるを得なかった人々は忘れてしまった

運命は本当は「選ぶ」んじゃない
自分たちは運命に「選ばれる」方なんだって

平穏で、飢えもしない、
自分で一から作り出す機会も無い、
何でもある生活に慣れてしまっていたんだ

しかし、良いのか悪いのか
自分が変わらずとも周囲が変わりゆくものだ。

膝を抱えてうつむいたままでも
山の雪は解け
水は流れ出す

愛する者はなくなった
「無くなった」?

そうじゃない、
神様はね、そんなむごい事は
しないんだよ。

死んだら「無」?

そうじゃない、

「無」とは「有」と対になる一つの側面でしかない
光と影のように、
「生」と「死」もまた一対であり、
互いがあるからこそ調和している。

あの人は消えて無くなったのではない、

「一切が無」とは、陰と陽が均衡を保ち、調和して美しくスパークしている永遠の事

「愛してる」

即ち
陰と陽のスパーク

「愛してる」

無限のそのくり返し

この宇宙全てが、
美しく交錯しスパークしている。

「人」でさえ

陰と陽のスパーク
(愛してる)

人とは、肉体と魂がスパークしているのだけど、肉体が滅びると御霊(みたま)になるんだと思う。

目には見えなくなってしまった。
抱きしめる体も無い。
それはなんと寂しい事であろうか!

それなのに、
なんで自分は生きているのか?

そう思っても、運命を選ぼうとしてはならない。
たとえあなたが膝を抱えたままでも、周囲は変化し運命に選ばれる日がいつか来るであろう。

この世での「生」はいわば修行のようなものだ。納得できない状況でも、ただ部屋の真ん中で色んな欲に負けず、悲しみに負けず、心を落ち着け、外から呼ばれれば出て行き、呼ばれなければ縁が無いという事だ。

そうして、かなしみながら強く生きていくんだ。

あの人は待つだろう。
あなたが自分自身の「生」=「愛」を全うするのを
あなたの強い生き様をきっと最後まで見てくれ、また逢う時には穏やかに微笑んでこう言うだろう、

「愛してる」と