天照大神の姫巫女〜9条と靖国と世界平和〜

天照大神である姫様とその媒体である素人巫女のブログ

占いからのよもやま話

今日のYahoo!占いを読んだからではないが、久しぶりにブログを書こうと思う。これを読んだ人が何かを感じ得るならば、私の夜更かしも無駄では無い。

占い。
と、言うと六星占術などでは私は2018年はあまり良くないらしい。八方塞がりで地蔵のようにジッと人生の冬をやり過ごさねばならないのだそうだ。そしてそれは半年以上が過ぎて満更嘘ではない。

そんなつまらない事もあって、最近Yahoo!の星占いの方を毎日見る事にしている。無料の星座別のラッキーカラーも好きだが、特にケイナーファミリーの格言のような占いは私の難解な人生の紐解きの助言であり「成る程!」と思わされる事が多い。え?そこの貴方も見てるって?
オスカー・ケイナー氏は”今日の宇宙“で「誕生日の星の配置で一年が決まるのか?」という質問に、「私たちの太陽回帰図(誕生日の星の配置)はその後の人生の下絵にすぎません。絵を完成させるのは私たちの筆(ふで)さばきです。」と答えていて納得した。生まれた時の星の配置で全て決まる訳ではないのだなあ。人生とは塗り絵のようだなあ、と納得した。オスカーさんのファンであったがケイナーファミリーの占いは今月末でYahoo!での掲載は終了との事で残念です。

私が若く“清らか”であった頃、人生の度重なる分岐点においてどちらに進むべきか?何をするべきか?その先はどうなるか?など今思えば超能力じゃないかと思うようにスラスラと先を見透す事が出来たのだが、“清らか”を捨てた頃に人生の進むべき道が全く分からなくなってしまった時があった。

「?」
である。

私のそれまでの生き方として、「呼ばれれば行き、呼ばれなければ縁がない。誰かに呼ばれるまでは自室で座禅」みたいな事をしていたのだが、とうとう誰からも呼ばれないという時期があったのだ。周りが一切動かない、運命の歯車がピタリと止まってしまった。そんな事は初めてであった。それで私はその時にそれまでの自分の人生を振り返り、歯車のスイッチを求めて初めて自分からその占い師の方の所へ赴いたのである。それは呼ばれて行ったのではない、初めて自分から思い立って出かけて行ったと言っても過言ではない。(※常識範囲内で生命維持の為スーパーや買い物は一人でも行ってはいたが。そして知らない人には着いていかない教育は受けていた。)
その占い師の方も星占いであった。何故そこを知っていたかと言うと職場の先輩と何度か行った事があって、その時の縁であった。

その占星術に必要な生年月日、出生時刻、場所などは私は幸いな事に母子手帳がある時代に生を受けたので分かっていた。これは会社の上司からお聞きして少し衝撃を受けたのだが、戦中戦後の混乱期に生を受けた方々は正しい誕生日を記録に残す事も無かったそうだ。母親の記憶のみで縁起が良いからと誕生日を1月1日として戸籍に登録する事もあったそうである。自分の本当の誕生日を死ぬまで知らない人もいるのだ。思わずこう叫びたくなる。
「Jesus Christ!」

話しが逸れた。兎に角その時の星占いで迷子になっていた私の人生は本当に拓けたので、ちょっとだけ傾倒してその占い師の方からロマンティックアストロロジーという本まで作ってしまった。自分が生まれた時刻と場所から出生天宮図を割り出してもらい、その時の太陽系の星の配置で(オスカーさんが言うところの)人生の下絵を見せてもらうのだ。ロマンティックである。今でも大事にしています。

ところで、西日本豪雨で多大な被害が出てしまっている。私はブログ更新が本当に気まぐれなのだが、今こそ「愛別離苦」という言葉がある事を知ってもらう時じゃないか?と思ったが、ウィキペディアと仏教ウェブ入門講座という個人サイトから引用させて頂きました。

【四苦八苦】ウィキペディアより
四苦八苦(しくはっく)とは、仏教における苦の分類。
根本的な苦を生・老・病・死の四苦とし
生…生きていること自体肉体的精神的苦痛が伴う。
老…老いていくこと。体力、気力など全てが衰退していき自由が利かなくなる。
病…様々な病気があり、痛みや苦しみに悩まされる。
死…死ぬことへの恐怖、その先の不安。
根本的な四つの苦に加え、
* 愛別離苦(あいべつりく) - 愛する者と別離すること
* 怨憎会苦(おんぞうえく) - 怨み憎んでいる者に会うこと
* 求不得苦(ぐふとくく) - 求める物が得られないこと
* 五蘊盛苦(ごうんじょうく) - 五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならないこと
の四つの苦を合わせて八苦と呼ぶ。

愛別離苦
仏教ウェブ入門講座
作者・長南瑞生 氏のHPから

愛別離苦(あいべつりく)
会うは別れの始め……

愛別離苦」とは愛する人や物と別れる苦しみです。
「会うは別れの始め」「会者定離(えしゃじょうり)」と言われ、
出会ったからには、どんなに愛する人とも、
最後は必ず別れて行かなければなりません。
江戸時代・化政文化を代表する俳人小林一茶は、
晩年になって、ようやく待ち焦がれた子供が生まれました。
「さと」と名づけたその長女は、生まれて一年も経つと、
他の子供が持っている風車を欲しがったり、
夜空に浮かぶ満月を、「あれとって」とせがんだり、
たき火を見てきゃらきゃらと笑います。
そのかわいいかわいい一人娘の、あどけないしぐさをいとおしむ情景が、
一茶の代表作「おらが春」に描かれます。
ところがそんな時、突如、さとは当時の難病、天然痘にかかってしまいます。
びっくりした一茶、必死に看病しますが、さとはどんどん衰弱し、
あっという間にこの世を去ってしまいます。
茫然自失、深い悲しみが胸にこみ上げ、一茶はこう詠んでいます。
露の世は つゆの世ながら さりながら(小林一茶
露の世は、露のような儚いものと聞いてはいたけれど……。
かわいい娘を失った悲しみは胸をうちふるわせ、
あふれる涙に、もはや言葉が継げません。
一茶の決してあきらめることのできないむせび泣きが聞こえてくるようです。
そして最後は、愛するすべての人と別れて、
自分が死んで行かなければなりません。

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悲しみも苦しみも誰も望まないだろうに、生を受けた者全てが四苦八苦しながら生きていかなければならないとは何と哀れか。

姫様は
「わらわは愛しているのだよ」
と仰せです。

天照大神だと仰せになる姫様は、無条件でご自分には何の見返りも無いのにいつも私の側に居て下さり、全ての人々を愛していて下さる、それは神の愛「アガペー」です。

苦しみ、悲しむ人々に少しでもこのブログ記事を読んでもらって何かを感じてもらう事が出来たなら、私は今日のYahoo!占いを信じて良かったと思うでしょう。

私は無学ですが苦しみ、悲しみが癒されるように手を合わせます。

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏