天照大神の姫巫女〜9条と靖国と世界平和〜

天照大神である姫様とその媒体である素人巫女のブログ

長崎ツアーから有為転変を思う

私は9条改憲の案が自民党から出た時から、強い危機感を感じていました。

専守防衛である自衛隊を「古臭い」と言わんばかりに攻撃力のある軍隊へ改変するという考えに何故か強い、激しい憤りを覚えたのです。天照大神の憑依現象も起きて何度目かの精神病棟への隔離入院となりました。

それは、きっと私の43年の人生でこの身を以って体験した、先の大戦の犠牲者(英霊方)の無念が、「お国の為に」と身命を賭して捧げた筈の今在る平和が、令和を生きる私達にはどれほどむごく、あり得なかった戦争であったのか認識されておらず、自らの死に方、あの地獄は何の為であったのか?と、どのようにしても、身を捧げたお国を思えばこそ、愛する子孫を思えばこそ成仏出来ず天照大神に救いを求めた英霊方の御霊(みたま)の、私達へ伝えたくとも伝えられない音の無い深い深い無念が、最早それによって怨霊とならんばかりの執念が私にその試練を与えたのだと思っています。

沖縄から入梅の報せを聞いた頃、私は初めて九州の地を踏みました。主に長崎県世界遺産を巡るツアーに参加したのです。私は長崎でその歴史を継ぐ人々とお会いして昔のお話しを聞く事が出来ました。平和公園へも訪れました。あの巨大な像を仰ぎ見て手を合わせ、思いの外に安らいだ空気を感じ、碑文に水を掛け、どのように怖かったであろうか?苦しかったであろうか?綺麗な水が飲みたかったであろうか?と考えていたのです。

そして、長崎には複数ある教会を訪れては異国の宣教師の無償の献身に心打たれ、改宗し、激しく弾圧され命を奪われた人々がいた事、それはきっと当時のキリシタンと呼ばれた人々には魂の殺人とも言えるむごい仕打ちであったのでしょう。

何の神を信じるか?によって激しい迫害を受けた人々がいた事に、私は深い同情の念を抱きました。
当時の本当に純粋であった人々が自らの神様を信じる事が許されなかった事、心身を根底から痛めつけられ死に至らしめられた事は我々を愛し救って下さるどの神様も全く喜ぶ事では無いし、現在では平和憲法によって宗教の自由が確立されているのだから、その人の神を奪うなどあり得ないのです。現在の平和憲法の『宗教の自由』という考え方は世界で共有すべき尊ぶべき、人類が第二次大戦後に出したあの大量殺戮から得た教訓です。そして、平和憲法は決して「古臭い」ものではない。

私は知って欲しい。
キリスト教であっても、仏教であっても、神道であっても、
神様は共通して愛して下さっていることを。憎しみを捨てなさいと仰っていることを。
何を綺麗事を、と言う人もいるでしょう。しかし、物事には順番があるのです。

私は安倍首相の口から改憲の案が出る度にハラハラし「議論を深めて欲しい。」と国民に信(真?)を問う度に英霊方の無念を思い、毎回投票箱に手を合わせたくなるような選挙へ行く度に人々の無関心を痛感し、そしてその結果に落胆するのです。

個人的な気持ちを書けば、多分このまま憲法9条は改憲されるんじゃないかと思います。それは、私の無力さにも原因はあるんじゃないかと思うのですが、今の英霊方の命と引き換えに得た平和な令和という時代を生きる私達があまりにも(私が隔離病棟に入院した自分が滑稽に思える程)無関心だからです。

きっと、天照大神はお怒りになるでしょう。(荒御魂)
そして、令和を生きる私達、その子孫は何もかも元に戻す事は出来なくなるでしょう。有為転変と言うのです。

果たしてそれが吉と出るか凶と出るかは本当に神のみぞ知るところです。

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